あまま、メモ

気が向いた時にメモります

魂による形質の再解釈について

 共時的に意識の中に展開されている魂の論理もまた、実は通時的な発展の産物であり、その発展は魂の論理に回収されるものではない。決して魂には近づき得ない垂直的な発展があり、その発展を経て今の健全な情動や論理が成立している。俗流生物学はその次元の違いに無頓着である。それゆえにそれは発展の垂直的通時的論理を既存の共時的論理にて還元しようとする。この時魂とは何かという一つの理想的な真理に対しわれわれは部分的に背くことになる。魂の系譜学的考察によってこそ、われわれはその過ちから脱することができる。
 有機体は一定のメカニズムで生成変化、反応を行っている。そして年月を経てある原初的な有機体は人間へと進化した。この時この人間と原初的な有機体とではどれほどの違いがあるのかについて、基本われわれは無頓着である。単純に対応関係を作って還元ができればそれで解決というわけではない。そういった形式的な考察は批判的に見直されるべきである。単純に言えば、原生生物の「補食」と人間の「食事」は完全に別のものだ。通時的発展の論理における因果的な結びつきはあるかもしれないが、個々の現象の性質はもはや類比的な対応関係しか見いだせないような互いに異質なものである。対応関係に甘んじることでこういったことに無頓着であると、それこそ無頓着な還元が行われる。
 この還元において見落とされてしまうこととは何か。それは人間の文化的な過剰である。人間としてのパースペクティブにもとづけば、明らかにわれわれの一挙手一投足は自然から独立したものとして確固とした論理を獲得している。下手な客観的科学的視点によって消去されがちだが、われわれの愛に満ちた論理はわれわれだけのものである。だからこそ実体とは延長と精神すなわち魂となる。延長一元論とはならず、そこには魂という一つ超越した次元が確保される。つねにすでに立ち現れてしまった魂はもはや自然を超越しており、これは過剰からして明らかである。
 魂は確かに通時的な論理を通して自然の奔流から形成されてきた。特に精神分析はそのことを紐解く一つの手段である。フロイトによって提唱されたタナトスは、発生した原初的生命の緊張からの緩和すなわち無生命への回帰を志向したエントロピー増大の法則に則った欲動である。分析を施されない魂はその事に無自覚だが、確かにその裏には極めて原初的な熱力学的安定へと傾く自然の論理が通時的に受け継がれている。魂は自然の奔流があってこそ成立しているのである。しかし、再度述べると、魂はその事に無自覚なのだ。魂はタナトスに誘われる形で共時的論理を形成しているが、だからと言って魂はタナトスを自覚していない。魂は自然の奔流に身を置きつつもそのことを顧みない。つまり魂は受け継がれた生物学的な自らの形質に対し再解釈を行うことにより、初めて魂としての自らを獲得したのである。
 人間とは有機体であり、その有機体には魂が備わっている。しかしこの時、魂はもはや原初的な生物の論理に則ってはいない。なぜならば魂は元々の自然の論理を受け継ぎつつもそこで得られた形質を再解釈し、諸可能性に開かれた共時的な論理を張り直すからである。いかに諸器官において生物学的な目的論的機能が提唱されても、人間の魂の論理はそこに与かることはない。今、通念において通時的論理と共時的論理の境界が曖昧であるがゆえに見落とされがちだが、病で死ぬ者は本来ただ苦しんで死ぬだけなのである。
 この共時的論理を張ることを支えるのが文化的な過剰である。文化とは人間の魂の過剰の保存先である。個々の魂の過剰が社会的に共有された文化の中に保存されていくことで、後に生まれ落ちた赤ん坊が象徴界に参入する最中に保存先を参照し、魂を形成し、過剰を継承することができる。過剰を継承した時、赤ん坊は生物から人間となり、魂を獲得する。そして魂を獲得した時、魂を獲得していなかった頃の欲動の奔流は、彼岸として顧みることのできない空間となる。これはニーチェが示した、道徳の発生以前を顧みることの困難さと同根の現象である。
 今、この現在において人間とは何かと問われればこう答えることができる。人間とは有機体である。しかしその有機体は魂が再解釈した代物として駆動しており、もはやそれは生物を逸脱した過剰を孕んだものである。人間とは、有機体という生物としての自らを乗り物としてこなす魂なのである。この時魂は目的論的に解釈されうるような生物学的通時的論理たる自然の奔流を、新たな文化的過剰を孕んだ共時的論理として再解釈し、自然からの横滑りに成功する。
 物理エンジンにおける歩行の強化学習の最中オブジェクトが不規則な動きで駆動する様は、魂が有機体を乗り物として駆動していることの類比的な例として説明できる。学習する個体は一定の条件を満たすことを目的に自らの身体を解釈しながら駆動していく。人間も同様に、魂による有機体が持つ諸機能の再解釈をもってその形質を逸脱した動きを見せることができる。魂として意識が精錬された以上、人間は自由闊達に生物学的な通時的論理を共時的論理へと再解釈して過剰を生産することができるのである。だからこそ人間は生存の条件を満たしたことの報酬としての享楽に溺れ破滅することができ、異変を浄化する叫びとしての笑いを娯楽へと転化することができ、身体を支える前脚を制作の手段として自らにもたらすことができる。この自由な過剰を生産できるのが魂である。魂は徹頭徹尾、自由なのである。
 確かに有機体の通時的論理は重く強力ゆえ、共時的論理を張る際の制限となることは確かである。しかしこと観念的な形質に関しては場合によっては横滑りしていくことは可能であるように見える。それこそ親族の悪しき性格の形質も、たとえそれを受け継いでいたとしてもその傾向性を保持しつつ別の形へと再解釈することは可能だろう。少なくとも半ば運命論的に自らの性質を決定づけるのは早計に見える。なぜならば自由は単なる理念ではなく、過剰の生産として現に人間が行っていることだからである。