あまま、メモ

気が向いた時にメモります

おばけがこわい

 幼少期お化けが怖かった。誰もいない部屋や曲がり角、風呂場、あらゆる場で何かに覗かれているような気がして、気持ちが不安定にうわずった。時折何か顔のようなものが頭に浮かび、それが何なのか定まる前に頭から消えていく。しかしやんわりと刺されるような感覚だけは健在で、何ががいるという心持ちを払拭することができない。
 今までお化けには会ったことがない。結局私は会ったことがないものに恐れをなしていたのである。
 十余年が過ぎ、ひとりぼっちの部屋に怯えていた頃が嘘かのようにひとり暮らしに身も心も慣れ切った。1人で部屋にいても怖くないし、お風呂にだって入れる。この前なんか深夜にコンビニにまで行った。お化けは鳴りを潜め、たかだか軋む記憶のがらくたの一部に落ち着いた。もちろんお化けのことは覚えているし、その概念を忘れてしまったわけではない。しかしあの刺すようなまなざしだけが時と共にしぼんで削れてすり減って、いつの間にかその気配はなくなってしまっていた。
 そんな事情だったので私は自分がお化けを怖がっていたということも頭から離れ、真人間としての普通の生活を送ることができた。つまり言うところ、私は大人になった。
 お化けのいない生活はまさに凪のようなもので、身の回りにあるものが朴訥に、整然とした姿で身に馴染んでいる。蛇口から水を流して顔を洗い、昨日からほったらかしていた油のついたフライパンを洗う。使い古した椅子を引くとぎぃと音が鳴り、コップを置くとかたと鳴る。日が昇って落ち、その中で生活が編まれる。そう、日常は正に編み物のようなもので、あるべきものがあるべき形へと折り合わさり、ひとつのリアリティが完成していく。それを成しているのは世界でもあるし、同時に私でもある。私がある側面をもって、世界を編むことに参与している。そして私は同時にそのリアリティの中に溶け込み、いつの間にか時間を過ごしている。
 その編み目の中にお化けはいない。大人になった私は私のリアリティの中にお化けを編むことをしなかった。お化けの代わりに科学が編まれ、マスコミが編まれ、エンタメが編まれる。そうして世界は堅牢になるし、そしてかつて覚えていたことを忘れるようになる。大人になると妖精が見えなくなるようだが、同じくらいお化けも見えなくなった。
 そんなことをふわふわと思いながら生活を継続していた。結局お化けって何だろう。そういったことが自分の中でテーマとなり、自分の生活の中でのささやかな軸のひとつになっていた。そんな時である。私はまたお化けと出会うこととなった。ただ出会ったといっても、別に私は「いかにもお化け」ななまめかしい顔と対面したわけではない。そうではなく、あの「何かがいる」を感じたのである。これは経験として珍しいことではないのだが、お化けをテーマとしていた私にとっては渡りに船だったのだ。
 最近ヘッドホンで音楽を聴いていると、どうもiPhoneとの接触が悪くなる。聴いている途中で音が途切れたり、音自体が聞こえなくなったり、何かと不都合が起こっていた。そんな中、夜中にいつものように音楽を聴いていた時、突然ヘッドホンから甲高い異音が鳴った。今まで聴いたことのない音が耳元で流れたので私は驚いたのだが、その驚いた瞬間、私はお化けを感じた。
 その時私はなにか自身の肉体が世界との接続を失ったように感じた。さっきまで肌の内部にまで浸透していた私にとっての世界が揺らぎ、その機微が私から離れ、世界と私との間に間隙が生まれる。そしてその間隙としての真空を埋めるかのように世界が刺してくる。かつて癒着していたものが冷たい対象となって襲いかかる、いや、正確にはそうではない。世界現象という表象が不安定に揺らいだ隙を見計らったかのように、その編み目を突き破らんと外部にある何者かが私を襲っていたのだ。
 私はもう既に幼児の頃とは違っており、大人であり、現象を加味する分別が付いており、だからこそお化けを看取することもでき、そして気付いていくこともできた。かつての私はお化けを怖がっていたのではないのかもしれないぞ。たしかに怖がる対象はお化けである。が、そのお化けがお化けであると言うことで終わりではなかったのだ。お化けとは着ぐるみ、隠れ蓑であり、その背後に別のものが暗に示されている。暗に示されているというバランスによって、お化けはお化けだったのだ。幼い私はお化けという安易な仮象に頓着し、世界の安寧をつんざこうとするような外部の顕現に思い立つことができなかったのだ。
 何かが私を見ている。何が見ているのか?それはお化けだが、それはお化けではなく、驚異をもって切り開かれる現象の外部である。何かが私に襲い掛かろうとしている。何が襲いかかるのか?それはお化けだが、それはお化けではなく、異形の表象を纏った死であり、スリリングでマゾめいた劇薬。
 現実とは私と世界によって編まれた表象の膜であり、スクリーンである。私はいつもその編み目に浸り日常を過ごしている。しかしその現実はスクリーンである以上バーチャルであり、終極ではない。だが終極ではないとして、その先に何があるのか?何もないのではないのか?何もないからこそ現象は現象なのではないか?現象に外部が「ある」のであればそれもまた現象であり、現象はその全体を完結させることができなくなる。
 しかし現に人は予感する、何かがあると。いや、それはあるというのも憚られるような、気の迷いと言いたくなるような遠い何かである。世界が揺らぎ、壊れそうになることでしか看取できない外部という「存在、とは別のもの」。そういった外部に人は恐れたり引き込まれたりする。それが時に神の声となり、良心となり、自傷となり、忌避となり、スリルとなり、それがさらに資本主義的なエンタメの代謝へと組み込まれ拡散していく。具体的に言えば、例えばこのように拡散し粒だっていく外部は、ときに何らかの外套をまとい、リアルの編み目へと参与する権利を獲得する。大いなる外部の「顕現」は神という表象装置をもって顕現する。またときに外部は同じく表象をかき集めつつも、自身はそれをまとわず、周辺に飾り立て、自身は深淵を担う穴として振る舞う。それがある時作品となって顕現し、人を誘惑する。

 このように外套や装飾を加えでもしないと人は耐えることができない。たとえ蠱惑的だとしても、それは人を破滅させてしまう。言い換えると、外部はモロには食らえないのだ。なぜならば、モロに食らうというのは、相対的に今まで築き上げてきた日常世界の編み編み、その楼閣の揺らぎを進行させ、破壊を食らうことに等しいからである。
 そういった破壊を防ぐ外套の中に、お化けがある。お化けもまた、世界の崩壊を堰き止めるため外部が受け取る編み目への通行手形である。幼い子供の世界は粗い。それは単純に、知っていることが大人に比して少ないからである。少ないゆえにそのリアルの編目は粗く、それにより実は子供は外部に近しい。だから子供は大人より虫が触れたり汚さへの抵抗がなかったりする。しかしその分子供の世界は大きくほころびやすい。わずかな外部の気配には耐えられても、多量のそれには耐えられない。だから子供はその裂け目に「お化け」という表象を差し込んで栓をする。そうすることで子供は世界を安定させ、安定して怖がることができるようになる。怖がる対象がないことが何よりも恐ろしいことを子供は図らずも感じ取っているのである。
 私は大人になってお化けを感じた。その端緒はヘッドホンから鳴った異音である。その異音は私に冷や水を浴びせ、十分に安寧した私の世界を揺るがすことに成功した。するとその揺らいだ世界の編み目の奥から外部の気配が先鋭化し、私はそこにかつてのお化けを投射する余地を感じたのである。しかし私はしないでみた。しないでみることができるような心の余裕があったのだ。なぜなら私は、大人だから!大人の世界は子供より堅牢であるがゆえに外部の気配を感じにくいが、その編み目の中での融通が利くらしい。この機転が功を奏して、結果このようにお化けの解釈をやってみる余地が生まれたと言える。
 今もお化けには会ったことがない。やはり結局私は会ったことがないものに恐れをなしていたのである。